kikkiiのブログ

ひきこもり

原作に忠実でなくても別にいい

アニメや映画が原作通りではないから「つまらない」という感性は偏見のようなものであり間違っていると私は思っている。

原作通りではない部分は、原作を元にして創作した部分だ。それによって「つまらなく」なれば、変えた人の責任で悪くなったということだ。

原作を変えたことよって「面白く」なれば、変えた人の創作の部分はよかったということで、変えた人は褒められていい。

原作通りであったほうが面白くない場合もあるし、そうでないこともある。それだけのことだと思う。「原作通りではないから」それだけの理由で作品が面白くなくなるわけではないと思う。

2019年1月28日

まぶたの裏から空へと飛んで街の光を見下ろしてキレイだな。私たちはいま光らない光のような浮遊体だ。燃えていない星のような空間の歪みだ。あなたが私を想像するときたゆたう。私があなたを想像するときたゆたう。イヌやネコのように言葉を話せないものが押したり引いたりぶつかったり離れたりしているね。

みそぎ

水中毒かつ喫煙者の母の体が急速に悪くなってきている。「あと1、2年の命ではないか」と父は言っていた。

父は死ぬ前の思い出づくりのために母を温泉に連れて行こうと思っているようで、去年、父親と母親と私で温泉がある宿に何回か泊まった。

今年の1月10日にも、温泉に行くことになった。


私の父親は温泉が好きだ。車で行ける距離のいくつかの行きつけの日帰り温泉に週2日~4日ぐらい、回数券を買って通っているようだ。私が子供の頃からそんな感じで、誘われて私もよく温泉に行った。帰り道、古本屋に寄って、父親は本を買っていた。私も1冊買っていいことになっていた。

母親はたまにしか温泉に行かなかった。温泉が好きではないのかと思っていたが、去年温泉に行ったとき、一日に何回も温泉に浸かっていたので、嫌いではないのだろうと思った。眠れないからといって真夜中にも温泉に浸かりに出て行った。禊をしているみたいだと思った。

父も昔から禊をしているみたいだと思った。父がなぜそんなに温泉が好きなのか疑問だったが禊だったのかと解釈すると腑に落ちる。


禊というものが気になってきて『古事記』現代語訳の「身禊」の意義が語られているところをそこだけ読んでみた。

禊をしていると何故か神様がたくさん出てくる。イザナギの命が黄泉の国から帰ってきた穢れを禊で清めようとするとその過程のなかで、湯煙が湧いてくるみたいに神様が色々出てくる。

「禊をしたい」という感覚は神様がたくさん出てくるような大事なことだ、という主張を、「温泉に浸かるというのを禊の一種だ」と解釈できるなら、この感覚に、私は親しみを感じる。


「黄泉の国から帰ってきたときの穢れを落とすことに神が宿る」というメタファーからは、神社に参拝することや、たとえば山歩きとか、たまに気を失うぐらい大酒をくらうとか、頭の中にあるモヤモヤを書き残して置かないとさっぱりしないこととか、色々な変種が出てくるようで、その禊というある種の芸術観で自分が生きようとする世界を解釈していくと希望が持てる気がしている。


そういえば2019年になった。あけましておめでとうございます。今年は「禊」という視座に自分を置きたいという気持ちです。

2019年1月3日 初夢

今年の初夢は、靴を探している夢だった。


3階建ての温泉宿のようなところの3階の部屋に私は1人で宿泊していた。下の階にある温泉に浸かって帰ってきたら、靴がなくなっていた。

コンビニのビニール袋に入れて、履いてきた靴とは別の靴を持参して部屋に置いていたはずだが、その靴がなくなっていた。履きつぶした黒いスニーカー。

私は靴を探して窓から外に飛び出た。

3階の窓の外は何故か芝生で覆われた斜面になっていた。私は自分が泊まってる部屋の下の斜面を掘ろうとして草をむしった。こんな事をしても無理だと思った。

窓から入って部屋に戻り靴を探したが見つからなかった。

私はドアを開けた。自分の部屋を出て旅館の階段を下りた。1階と2階の廊下を「靴とか靴の足跡とかないかな」とキャロキャロしながら歩いた。見つからないので3階の部屋に戻った。

窓から外へ出て斜面を見ると、謎の誰かが、私が掘ろうとした場所に穴をつくってくれていた。爆発物を使って爆破しながら掘り進めていた。

少しすると反対側とつながったのか、光が見えた。光の穴が大きくなっていき「ああやっぱりここに靴はないな」と私は納得していた。

そこで目が覚めた。