kikkiiのブログ

ひきこもり

2018年09月17日

ネット上に意見を書き込まれる。バカにされたり、否定される。意見が間違っている事についての理屈が述べられたり、ソースが貼られたりする場合もある。その批判は筋が通っている場合もあるし、そうでない事もあるが、どちらの場合であっても、大体は、意見を批判された方は自分の意見は正しいと主張し続ける。私は間違っていないのだ、と怒り出し、その感情に任せた言葉がネット上に書き込まれていく。

この時点で、信仰が表明された事になる。根拠があってもなくても信じている事があって、それを否定されたからネットの住人を無能呼ばわりして、怒っているのだ。それが固い信仰なのだとしたら、意見を変えさせようと意見を述べても無駄である。怒るのはいけないと、わかっていても怒り、怒りに支配されていく。

怒ってもいい事とそうではない事を決めるのが大事なのだろう。だからたとえば、信じるなら、何か無垢で清らかなことを信じる。「否定されたら腹の底で怒っていい事だろうか?」と問おう。つまり、否定されたら本気で怒ってもいい事を信じる事にした方がいい。あるいは、「それを信じていて否定されたときに顔を真っ赤にして怒っていたらすごく笑える」バカバカしい事を信じる事にした方がいい。

自分の信仰が怒っていい事と結びついていて、実際に怒っていい事で怒るなら、その人は、自分をコントロールできている。その人は自律している。今日はこんな事を思いました。