kikkiiのブログ

ひきこもり

みそぎ

水中毒かつ喫煙者の母の体が急速に悪くなってきている。「あと1、2年の命ではないか」と父は言っていた。

父は死ぬ前の思い出づくりのために母を温泉に連れて行こうと思っているようで、去年、父親と母親と私で温泉がある宿に何回か泊まった。

今年の1月10日にも、温泉に行くことになった。


私の父親は温泉が好きだ。車で行ける距離のいくつかの行きつけの日帰り温泉に週2日~4日ぐらい、回数券を買って通っているようだ。私が子供の頃からそんな感じで、誘われて私もよく温泉に行った。帰り道、古本屋に寄って、父親は本を買っていた。私も1冊買っていいことになっていた。

母親はたまにしか温泉に行かなかった。温泉が好きではないのかと思っていたが、去年温泉に行ったとき、一日に何回も温泉に浸かっていたので、嫌いではないのだろうと思った。眠れないからといって真夜中にも温泉に浸かりに出て行った。禊をしているみたいだと思った。

父も昔から禊をしているみたいだと思った。父がなぜそんなに温泉が好きなのか疑問だったが禊だったのかと解釈すると腑に落ちる。


禊というものが気になってきて『古事記』現代語訳の「身禊」の意義が語られているところをそこだけ読んでみた。

禊をしていると何故か神様がたくさん出てくる。イザナギの命が黄泉の国から帰ってきた穢れを禊で清めようとするとその過程のなかで、湯煙が湧いてくるみたいに神様が色々出てくる。

「禊をしたい」という感覚は神様がたくさん出てくるような大事なことだ、という主張を、「温泉に浸かるというのを禊の一種だ」と解釈できるなら、この感覚に、私は親しみを感じる。


「黄泉の国から帰ってきたときの穢れを落とすことに神が宿る」というメタファーからは、神社に参拝することや、たとえば山歩きとか、たまに気を失うぐらい大酒をくらうとか、頭の中にあるモヤモヤを書き残して置かないとさっぱりしないこととか、色々な変種が出てくるようで、その禊というある種の芸術観で自分が生きようとする世界を解釈していくと希望が持てる気がしている。


そういえば2019年になった。あけましておめでとうございます。今年は「禊」という視座に自分を置きたいという気持ちです。