kikkiiのブログ

ひきこもり

普段バスケットは見ないけど

年齢関係無く夜中に集まってバスケットをしてみたい。下の映像を見てわいわい楽しそうだったから、そう思ってしまった。

youtu.be

灰色のパーカーで白髪のラウンドひげのおじいちゃんの身のこなしは見ていて清々しい。おじいちゃんに変装したカイリー・アービングってNBAの選手らしいです。歩き方からかしてかっこいい。


人間は毎日歩くし、二足歩行は人間の象徴みたいなものだから、歩き方って何気に大事だとおもう。運動エリートの黒人の歩き方とか、ネコ科の生き物の滑らか動き方とか見習うべきだとおもう。

映画「愛を読む人」

 私は夜クワガタになり、無料スポットで蜜を摂取している。無料映画をちゅーちゅー。読書より楽なので最近は「映画いいな」状態になっている。でも映画に詳しくないので、観るかどうかは星の数で決めている。気になった映画のタイトルでググると最初に出てくるページの星の数を見て、星4つぐらい以上だったら、いいんじゃない?


 「愛を読む人」の評価は3.8だったから微妙だったけど、観てみたら泣いてしまった。前半の、15歳の少年と年上の女性の肉体関係を見るのは少し辛かった。そこを通り越して見ていると涙が溢れてきた。15歳からずっと変わらない魂が主人公だなと思った。ジーっと静かに唸る冷凍庫のような静かな情熱。冷やすために熱を発している。中身は腐らせない。

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箇条書き

  • 忘れるから箇条書きする。
  • 箇条書きを読んだら忘れる。
  • だったら箇条書きを箇条書きするとよい。

  • でも箇条書きを読んだら忘れる。
  • 忘れるから箇条書きする。
  • だったら箇条書きを箇条書きするとよい。

  • でも箇条書きを読んだら忘れる。
  • 忘れるから箇条書きする。
  • だったら箇条書きを箇条書きするとよい。

  • でも箇条書きを読んだら忘れる。
  • 忘れるから箇条書きする。
  • だったら箇条書きを箇条書きするとよい。

完結したと感じるまで尻尾を伸ばす。


youtu.be

ひきこもり柔術・初歩の初歩

 まず言っておきたいことは、「ジムや道場へ外出して他者と触れ合うようなトレーニングをした時点で、ひきこもり柔術破門」ということである。我々は孤独で強い者を育てたい。だだし、恋人や友達、知人や信用をなくしてして孤独になったらいつでも戻ってきてもよい。我々の「柔」はそのような柔らかさも含意している。優しいことは優れている。

 ひきこもり柔術の基本動作は、イメージトレーニングによる独学である。各自気が向いたときyoutube柔術や柔道の寝技のテクニックを見つけてブックマークしておくことは当然のこととして、その他の格闘技の技術に目を通しておくことも大事だ。時が来たら見ようと思って私がブックマークしているページを3つ貼っておく。

allmmalla.com

www.japan-wrestling.jp

www.japan-wrestling.jp


 想像しているだけの自分に辟易する場合もあるだろう。実際に身体を動かしたくなった場合、我々はわりと狭い部屋に閉じ込められているので、一人で行えて且つその場のみで機能する動作を尊ぶ。

 たとえば「移動しないエビ」という動作があるが、これを繰り返して人間から甲殻類へ変化していくことは、カフカの「変身」で行われた人間から毒虫への肉体の昇華を思い出させ、「これは文学なのです」と我々の活動を辞めさせようとする者たちへ言い訳するときに使える。

www.youtube.com

卑屈になって人間から卒業しようと願うことが「移動しないエビ」になりきる精神的コツである。


 今日は疲れてしまったので今日はこれまでとする。と言うと続きがあるみたいだが、今後続けていけるかわからない。

コミュニタリアニズム

 何気なくスポーツを見ているとき、以前の私は、「自分の国の選手だからといだけで応援するのはは不自然だ」と考えていました。今は、「自分から近い位置にいる人間を応援することはやはり自然だな」とおもうようになりました。私は自国贔屓して日本人を応援します。自分の中で、コミュニタリアニズムが肯定できたのだとおもいます。


 自分の家族がスポーツの大会に出ているとします。そこで家族を応援することは自然なことです。家族を大切にすることで「不道徳」だと後ろ指をさされることはありません。

 家族愛を肯定するのと同じ理屈で国家の成員を応援することが肯定できます。家族を薄めて広げたら国家になります。他の国の人より自分の国の人の方が私に近い存在と言えます。自分との近さによって応援する選手を選んでも不道徳なことではないはずです。


 自分から出発してコミュニタリアニズムを肯定することもできます。自分がいちばん大事な存在だとしましょう。そうだとしても自分に近い人間は大事にしなければならなくなります。自分の存在を確定しようとするときに自分と関わりのある近い人間を参照しなければならないからです。

 自分は誰なのかと思い悩み、自分を定義しようとするとき、脳内私小説でも脳外私小説でもどちらでもいいですが、自分を位置づける物語をつくらなければならないときがきます。自分の定義とも言える自分の物語に登場する人間や環境は、ぼやけた自分自身です。それらは自分をつくってきた要素であり、ほやけた身体です。

 「自分がいちばん大切な」なのだから、「ほやけた自分」もその濃度に応じて大事にしなければならない、と考えるべきです。自分の身体の境界や日本文化が自分を定義しているものとしてボヤッと霧のように広がっているイメージです。