kikkiiのブログ

ひきこもり

コミュニタリアニズム

 何気なくスポーツを見ているとき、以前の私は、「自分の国の選手だからといだけで応援するのはは不自然だ」と考えていました。今は、「自分から近い位置にいる人間を応援することはやはり自然だな」とおもうようになりました。私は自国贔屓して日本人を応援します。自分の中で、コミュニタリアニズムが肯定できたのだとおもいます。


 自分の家族がスポーツの大会に出ているとします。そこで家族を応援することは自然なことです。家族を大切にすることで「不道徳」だと後ろ指をさされることはありません。

 家族愛を肯定するのと同じ理屈で国家の成員を応援することが肯定できます。家族を薄めて広げたら国家になります。他の国の人より自分の国の人の方が私に近い存在と言えます。自分との近さによって応援する選手を選んでも不道徳なことではないはずです。


 自分から出発してコミュニタリアニズムを肯定することもできます。自分がいちばん大事な存在だとしましょう。そうだとしても自分に近い人間は大事にしなければならなくなります。自分の存在を確定しようとするときに自分と関わりのある近い人間を参照しなければならないからです。

 自分は誰なのかと思い悩み、自分を定義しようとするとき、脳内私小説でも脳外私小説でもどちらでもいいですが、自分を位置づける物語をつくらなければならないときがきます。自分の定義とも言える自分の物語に登場する人間や環境は、ぼやけた自分自身です。それらは自分をつくってきた要素であり、ほやけた身体です。

 「自分がいちばん大切な」なのだから、「ほやけた自分」もその濃度に応じて大事にしなければならない、と考えるべきです。自分の身体の境界や日本文化が自分を定義しているものとしてボヤッと霧のように広がっているイメージです。