kikkiiのブログ

ひきこもり

映画「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」

ディーン・クーンツの「ベストセラー小説の書き方」という本を読んだことがある。その本は、要するに、とにかくたくさん書いて、たくさん本を読めということが書いてあったとおもう。彼の本はそれしか読んだことがないが...無料で見れそうな映画を漁っていたら、映画「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」の原作者がディーン・クーンツだと偶然知った。遠くから関わり合いを持とうとおもった。

これはボダッハだ。ボダッハは死の匂いを嗅ぎつけて見物に来る。普通の人には見えないが、映画「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」の主人公オッド・トーマスにはボダッハが見える。「不可抗力の連続だから人生をなるべく単純にする」はオッド・トーマスの哲学。また彼は至高の存在と死後の世界を信じている。彼は死者が見えてつい関わってしまう。彼は付き合っている彼女といちゃいちゃしたりもする。

2018年03月21日12時57分

浅い意味のある雑音に繰り返し邪魔される。くだらなくても意味は意味なので反応してしまい、もともとの流れが中断されてしてしまう。時間を返せと言いたくなる。意味のない雑音に囲まれて集中したい。もっと意味のない場所を探して気軽に外に出られたらいいのにとおもうが、近所の人に自分を目撃されたくない。ワープして、出て行くときと帰ってくるときで閉じる輪っかの接合部を隠したい...ある種のマナーとして...。

弱い人間とか強い人間とか

どうしようもないクズ共が弱い人間であり続けるのは社会貢献だ。弱い生き物は大きな悪い事ができない。「下卑た魂を持つものは、弱いまま閉じこもり暮らし、分断されてろ、弱いクズがネット上にに溢れて見えているのは...むしろ可愛いことだ...社会が上手くいっている証だ...」

しかし、やはり、強くなろうとしない人間は話にならない。強ければたくさん人を助けることができる。強ければ何かに大きく貢献できる。強いものは、意志さえあれば、大きなよい事ができる。善意を持っている弱者がいるなら、まず、強い人になろうとすべきだ。弱いならば、自分が強くなる努力を続けるべきだ。いつまでも諦めない。それはとりあえず、善だ。

もちろん、強いものは大きな悪い事もできる。だから、強いものほど、行動の動機を語らなければならない。他の人が納得できる動機に基づいて行動していることを示さなければならない。復讐してはならない。今は許せる気がしないことも強くなれば許せるようになるのだろう...

私が、行動の動機を常に誰かに尋ねられている気がするのは、自分が強いものだと思い込みたいからだろう。強い人は、「何が善いとか悪いとか」に敏感になるはずである、だから、そのような人間を演じる。私がとても強いなら、私の行動の動機は世界にとって、とても重要なことである。

自我が増長している...強い才能のある者して他人から質問され、尊重されている感覚の中で、なぜそれをするのか、お話が語られ、自己イメージが高まっていく。道徳とか倫理に基づいて行動する主体となる。「私は善悪がとても気になるので、強いものの一員だと認められている」と思い込む。そうやって、人間には人権があるという約束事に納得できる人間になっている気がした。