kikkiiのブログ

ひきこもり

弱い人間とか強い人間とか

どうしようもないクズ共が弱い人間であり続けるのは社会貢献だ。弱い生き物は大きな悪い事ができない。「下卑た魂を持つものは、弱いまま閉じこもり暮らし、分断されてろ、弱いクズがネット上にに溢れて見えているのは...むしろ可愛いことだ...社会が上手くいっている証だ...」

しかし、やはり、強くなろうとしない人間は話にならない。強ければたくさん人を助けることができる。強ければ何かに大きく貢献できる。強いものは、意志さえあれば、大きなよい事ができる。善意を持っている弱者がいるなら、まず、強い人になろうとすべきだ。弱いならば、自分が強くなる努力を続けるべきだ。いつまでも諦めない。それはとりあえず、善だ。

もちろん、強いものは大きな悪い事もできる。だから、強いものほど、行動の動機を語らなければならない。他の人が納得できる動機に基づいて行動していることを示さなければならない。復讐してはならない。今は許せる気がしないことも強くなれば許せるようになるのだろう...

私が、行動の動機を常に誰かに尋ねられている気がするのは、自分が強いものだと思い込みたいからだろう。強い人は、「何が善いとか悪いとか」に敏感になるはずである、だから、そのような人間を演じる。私がとても強いなら、私の行動の動機は世界にとって、とても重要なことである。

自我が増長している...強い才能のある者して他人から質問され、尊重されている感覚の中で、なぜそれをするのか、お話が語られ、自己イメージが高まっていく。道徳とか倫理に基づいて行動する主体となる。「私は善悪がとても気になるので、強いものの一員だと認められている」と思い込む。そうやって、人間には人権があるという約束事に納得できる人間になっている気がした。