kikkiiのブログ

ひきこもり

プロレスとMMA

「それを信じていて否定されたときに顔を真っ赤にして怒っていたらすごく笑える」バカバカしい事を信じる事にした方がいい。

2018年09月17日 - kikkiiのブログ

映像を見ながら書き込みできるところで、たまにプロレスを何となく見て楽しいと感じる。バカバカしいかもしれないがプロレスをボロクソに言っている格闘技ファンの書き込みを見ると何故か腹が立つ。プロレスには台本があって八百長だとか、プロレスラーは弱いだとかの書き込みだ。私はプロレスより総合格闘技(MMA)の真剣勝負が好きである。なのにプロレスをバカにする人がいたら腹が立つ...「どうしてなんだろう?」と考えていて、囚人のジレンマで考えたらよいのだ私は気づいた。

MMA囚人のジレンマで言うと、お互いがそれぞれ合理的に行動するケースだ。お互いを信頼していないのでその前提で合理的に行動して、全体の利益は協力した場合より少ない。しかし格闘技やその他の真剣勝負のスポーツでは、お互いが相手は裏切るだろうと思ってフェイントをかけながら、裏をかいて一撃見舞ってやろうと戦い、その真剣勝負に拍手が送られる。スポーツは合理的な裏切りに拍手を送り利益を付加させる、人間社会が創り出した特殊な状況と言っていいのだろう。

プロレスは複数回繰り返される囚人のジレンマである。プロレスMMAと比べて年間の試合数が多い。興行の数が多いのは単純に数をこなしてお金を稼ぐのためなのだと思う。しかし、いつも真剣勝負をしていては身体がもたない。プロレスには、真剣勝負ではないお遊びに見えるような場面もある。このような状況が複数回繰り返される囚人のジレンマに当てはまる状況を生んでいる。

複数回の囚人のジレンマでは信頼が生じてくる余地がある。プロレスを見ていると色々な協力の形や政治が生じてきて私は楽しいのだと思う。私は敵であり商売仲間を怪我をさせないための優しさや、客を喜ばせ興行を成功させようと過激な技を敢えて受けるプロレスの胡散臭さに騙されてもいい。複数回の囚人のジレンマからは人間性が出てくる。これはMMAや他の真剣勝負だけの戦いとは別の大事な価値だと私は思っているのだろう。だからそれが否定されたら私は腹が立つのだと思う。

2018年09月17日

ネット上に意見を書き込まれる。バカにされたり、否定される。意見が間違っている事についての理屈が述べられたり、ソースが貼られたりする場合もある。その批判は筋が通っている場合もあるし、そうでない事もあるが、どちらの場合であっても、大体は、意見を批判された方は自分の意見は正しいと主張し続ける。私は間違っていないのだ、と怒り出し、その感情に任せた言葉がネット上に書き込まれていく。

この時点で、信仰が表明された事になる。根拠があってもなくても信じている事があって、それを否定されたからネットの住人を無能呼ばわりして、怒っているのだ。それが固い信仰なのだとしたら、意見を変えさせようと意見を述べても無駄である。怒るのはいけないと、わかっていても怒り、怒りに支配されていく。

怒ってもいい事とそうではない事を決めるのが大事なのだろう。だからたとえば、信じるなら、何か無垢で清らかなことを信じる。「否定されたら腹の底で怒っていい事だろうか?」と問おう。つまり、否定されたら本気で怒ってもいい事を信じる事にした方がいい。あるいは、「それを信じていて否定されたときに顔を真っ赤にして怒っていたらすごく笑える」バカバカしい事を信じる事にした方がいい。

自分の信仰が怒っていい事と結びついていて、実際に怒っていい事で怒るなら、その人は、自分をコントロールできている。その人は自律している。今日はこんな事を思いました。